心の穴が埋まらない

基本的に、私は過去に起こったことはさっさと忘れてしまう性質です。

大事なものを失っても、新たに代わりとなる存在が現れれば以前のことはすっかり忘れてしまう、ある意味お目出度い性格です。

だから、「犬がいなくなって空いた心の穴は、犬が埋めてくれるのだろう」と私はそう信じていました。

新しい犬を心から大事に思えるようになった今は、もう自分は大丈夫だろう。

そう思っていたのです。

 

ところが、現実はそうではありませんでした。

空の形に空いた心の穴は、相変わらず穴が空いたままでした。

いくらマロの形を当てはめようとしても、どうしても埋まらないのです。

 

そのことに気づかされたとき、「ああ、これが取り返しのつかないことってやつなんだな」と思いました。

 

いい意味でも悪い意味でもポジティブな私は、「どんな状態だとしても、強い意思とそれに伴う行動で、必ず変えることができる」という、確固たる信念を持っていました。事実、自分の意思と行動で現実を変えてきました。

遅すぎるとかどうしようもないとか、そんなのは現実から逃げてるだけだ。「意思」と「行動」でどうにでもなるのに、と。

 

ですが、生まれて初めて、どうにもならない、取り返しのつかないことがこの世にあるんだ、ということを知りました。そのときの虚無感や孤独感、そして恐怖は到底言葉では言い表せません。

会社への憎悪とマロへの愛情で若干精神的には平穏を取り戻していたものの、「一生この思いを持ち続けて生きていかなければならない」という事実は、私にとって非常に重いものでした。

 

 

話は変わりますが、こういうイギリスの諺をご存知でしょうか。

 

“子供が生まれたら犬を飼いなさい。

子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるだろう。

子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるだろう。

子供が少年期の時、子供の良き理解者となるだろう。

そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるだろう。”

 

確かに、死の悲しみや命の尊さを教えてくれることは素晴らしいと思います。

私も「確かにそうだよなぁ」と感銘を受けていました。空が死ぬまでは。

 

私が空の死で知ったのは、命の尊さではなく、自らの愚かさと非力さでした。

「それを教えるために空は死んだんじゃない?」とか言われたら、絶対言った人間をぶん殴ります。

犬は、そういうんじゃないんです。

そんな、人間に何かを教えるために生きてるんじゃないんです。

 

 

ではまた。